3代 阪西辰治
文久3(1860)年
−昭和7年9月10日没
塗師屋と表具屋を兼業
明治20年4月から5年間小学校の
授業生(助教)をする。
明治26年頃、句会である花月会を
結成、「都々一集」を発行、
梅窓庵一笑と号した。
4代 阪西通太郎
明治35(1902)年生
−昭和59年3月12日没
塗師屋・表具屋・葬祭造花屋
を営む
大正3・4年頃東京へ
修行に出たが、
体をこわし帰省し、
長岡市渡里町にある
柳田仏壇店に弟子入りした。
のち大正11年
上越北線開通の頃、
渡り職人よりペンキ塗りを教わる。
当時、仕事も塗料も少なく、やむなく材木屋で
働いたり、「炊き出し隊」などをして家族を養った。
さらに町の要請もあって、葬祭造花業を行う。
3代 辰治
4代 通太郎(下段右から二人目)とその家族
5代 省吾も見られる(上段左より二人目)