里山を雪国植物園に

― 植物園作りと平成令終会活動 ―

里山は緑の財産

発起(作りたい思い)

昭和30年代以降、経済が発展し、社会を構成するシステムが大きく変わり、同時に生活文化価値観も変わって、村人は街へ都会へと職を求めて出て行った。山仕事は採算のとれぬ仕事となり、結果として里山は放置され荒廃していった。
昭和59年、世にある里山全部は不可能だけれど、身近にある里山の一つでも市民共有の財産として維持管理し、それを植物園という名前で保護する市民運動をやろう、と真剣に考えるようになった。

よみがえった里山の植物園

設立の形

植物園は市民共有の財産という視点から、(1)長岡市が所有すべきであり、市が買収すること。(2)造園は市民ボランティア労力奉仕と市民の拠出した資金で行うこと。(3)完成後の運営管理は社団法人を設立し、その会費と低額の入園料で行い、市に負担をかけない。という3点が骨子である。植物園の総面積は35haである。

理念、目的、イメージ、造園方法、などの運営方法についての基本的な考え方

この植物園は日本海多雪地帯、つまり雪国の低山である里山の自然植生を大切にして構成する。従って外国の植物・園芸植物・海浜の植物は植栽しない。植物園の名称は、その意味で「雪国植物園」とする。そして造園の考え方は、人間がやさしく自然に近づくべきで、自然を無理に人間に引き寄せるべきではない点を最重要視したものとなった。

ボランティア活動

昭和62年の秋頃ボランティア会員の募集を行いその名称を「雪国植物園同志会」と決定した。150名の会員が登録され、翌年4月から作業が開始された。4月から11月頃までの第2、第4日曜日がボランティア労力奉仕の日で、雨の日は中止である。

平成令終会の活動

市民として誇れる話が長岡には幾つかあるが、その中のひとつに「令終会」の存在と事跡がある。「令終会」は大正5年に設立された。会の名の意味は「人生の終わりを全うする」ということで、当時60歳を超えた有志によって結成された。翌大正6年は牧野家による長岡開府300年にあたり、会では次なる世代のために自然豊かな公園を建設することになった。趣意書の中に「人生の終わりを全うせしむるに自己の財産を善用し、末を誤ることなかれ」と訴え、当時の金で10万円を集め、建設完了後、長岡市に寄付したのであった。その名を悠久山公園と呼び、全国都市公園百選の中に入っている。つまり、大正時代に市民による市民のための「まちづくり」が長岡にあったのである。

雪国植物園のイメージ

森林浴ができ、下草に山野草が咲き、小鳥がさえずり、蝶が舞い、トンボが飛ぶ。そして夏の夜には蛍の光がゆれる。野ウサギも狸もリスもいる。サシバやキジも子育てをしている。こんな形を想像している。
すでにカワセミが巣づくりをして子育てに成功していた。テンの親子も見られた。


(平成8年4月『雪国植物園開園記念シンポジューム』より抜粋)



雪国植物園の理念


1.

雪国低山の植物生態系・里山の自然生態系保護。

2.


高齢者の方々をはじめとする市民の社会参加(ボランティア活動)の受け皿となる。

3.


自然生態観察園として、次世代を担う子供たちへ情操教育の場を提供する。

4.

その結果として新たなビジネス・雇用が創出され、観光資源・市民の憩いの場として地域社会を活性化する。


雪国植物園の四原則


1.


とって良いのは、写真だけ。
(山菜も植物です。動植物の採集は厳禁です。)

2.


残して良いのは、足跡だけ。
(自分のゴミは、必ずお持ち帰りください。)

3.



吸って良いのは、空気だけ。
(たばこのポイ捨て、山火事の元。携帯吸殻入れをご利用ください。)

4.



歩いて良いのは、道の上だけ。
(道の近くに山野草が植栽されています。踏まれるとダメになるからです。)


社団法人 平成令終会
雪国植物園は、長岡市より委託を受け、社団法人平成令終会が運営管理と継続した植栽補強などを行っています。

社団法人平成令終会では、事業継続のための個人及び企業法人による賛助会員の増強をお願いしております。詳しくは雪国植物園までお問い合わせください。